人生

本物を追い続けるということ。それは孤独になることと同値なのか

「これは、真に良い物だ、と思うものだけを感覚を研ぎ澄まして見つけ、追い続ける」

これをおよそ中学あたりから、やり続けてきて早20年近くになりましょうか。
その端緒の表れは古くからあったものの、より鮮明な形で明文化されているものに僕が出会ったのは、およそ高校1年生あたりからであろうと思います。

高校の時分に、京都大学の数学の先生である吉田武さんの記した「虚数の情緒」という本を読んでおりました。
これは、滅茶苦茶長い本でして、数学から物理まで様々な分野について独学で学ぼうという内容で、普通の教科書とはだいぶ異なったアプローチが取られている本であります。

記憶によれば、第1章あたりに、学問をやる意味のようなものがつらつらと書かれていて、その途中に「世界は粥のような柔らかなものでは出来てはいない。粥のような柔いものばかり食していては、真なるものを得ることは出来ない」とか、そんなようなことが書いてありました。

その一章の、人によっては、ひどく冗長なお説教のように感じられる学問に対する姿勢に非常なる共感をもって読んだものであります。

また、当時、パソコンやらプログラミングに興味があった僕は、エリックレイモンドやLispプログラマとして有名な、ポールグレアム氏のエッセイなどを読んで、知性ある人々のその世界に想いを馳せたものでした。
「彼らは、果たしてどのような視点で世界を眺めているのだろう?」

How to become a hacker(ハッカーになろう)
というエリックレイモンド氏のエッセイ等も、定期的に読んでおりました。
技術は多くの人に無償で提供されるべきもので、世界を通して一体となって諸問題に取り組み、技術を資本の枠組みとは別に、自由に発展させていける世界は、非常に良いものだ、といった思想もこの時に育まれたのかもしれません。

このようなことから、高校生時分にして究極的な技術指向と言いましょうか、技術や高い精神性を必要とする人々の行為に対する、尋常なき尊敬の念が生まれておりました。
より普遍的に言えば、そのようなものを生み出していく人間の精神世界の豊かさに、深く尊敬の念を抱いていたのです。

「僕も何か極めて、何か本物を追究していくんだ!」
特に対象もな定まっていないのに、胸をキラキラと情熱で燃やし、日々そのような生活を心がけるよう、想うておりました。

また、音楽をこよなく愛していた僕は、友達とツタヤに日々通い、棚中の洋楽を借りつくして聞きまくったりしておりました。

多くの友人は、音楽雑誌などを読み、レビューを読んだり、前情報を得てから吟味していたのですが、僕はただ、音源さえあれば良かったのです。

当時の僕をして、「音楽だけでそのバンドを判断したいから、彼らの作った音楽のみ聞きまくってその世界を見たい。彼らの感情の揺らぎを見たい」と言っていたように思います。

この活動の根源もまた、人間が生み出すものに対する情熱と同じものなのであります。

およそ全ての物事に対して、そのように追究していったわけですが、今思いますとあるいは、それは「ある種の幼さ」でもあります。

多くの人々が暮らすこの世界は、様々な価値観があり、言わずもがな貨幣経済で世界は動いております。

価値という観点から見てみますと、かつての僕は、本物であるということだけで、それは至高の価値があると思うておりました。
しかして、実際の所、貨幣価値という点では、必ずしもイコールであるとは限りません。

価値を測る指標の一つとして、「お金」が挙げられますが、毎度のこと本屋で本を漁るのが好きだった僕が目にして思うたのは、バラ売りされている世界文学全集の異常な安さです。

中央公論社が出している、世界の文学というシリーズの全集があるのですが、カフカあたりがバラでほぼ新品に見えるのに100円でありました。
一方で、その当時流行った携帯小説が1000円以上で売っております。

その事実は、当たり前(旬である本が高価であるのは自明であること・カフカなんて多くの人が読まないだろう等)なのだけど、非常に悲しかったのを覚えております。

カフカは、非常に無機質な描写をする作家でありますが、その作品本来の価値は非常に高いと思うていただけに、その捨て値で置いてある本が印象的でありました。

この事実は、「お金で測る価値」と「本物であること」は、常に相関しているとは限らないということを例示しております

簡単に言えば、本物だからといって必ずしも貨幣価値が高いわけではない、ということです。

なーに、そんなの当たり前のことだ!と思います。
貨幣経済というものは、そうものだ!と大人は言います。

しかして、この現象は、より普遍的な形で蔓延しておるということに気づかされたのです。

本物だからといって必ずしも人は良いモノと認めてくれるわけではない

理系の技術屋の例

例えば、我々理系の技術を生業としておるようなものは、得てして技術力が抜きんでて高ければ、良い製品が生み出せ、売れるだろう、と思うことがあります。

けれど、世界を眺めてみると、そうでもなくて、技術屋が思う技術の有りようなんて買い手にしてみればどうでも良い、という事実が見受けられます

むしろ、ブランド力だったり、安さだったり、その他の購買意欲をそそる心理的効果というものの方が売り上げに効いてきたりしているのです。

無論、お金で価値を測るから、おかしくなる、ということは重々承知です。
一方で、貨幣経済のうちに生きている我々は、貨幣によっておよそどのようなものでもゲット出来る世界におりますので、貨幣が価値判断の中心に据えられやすいという事実があります

では、物質的価値はさておき、精神的世界での充実を測り、それを持って我々の誇りとしようではないか!という考えもありますが、その場合、理系学問や哲学等の複雑な概念を有する学問等をやる人の場合、ある問題にぶち当たります。

学問の例

絵画や音楽も非常に複雑なモノがあり、一見して良く見えたり聞こえたりしないものでも、自分のレベルが上がれば、非常なる素晴らしさに感銘を覚えるといったことがあると思います。
僕の場合、音楽や文学がまさにそれで、音楽で言えば最初は、パンクやロック、メタルばかり聞きまくっていて、ブルースなど聞いてみても、さしたる良さを感じませんでした。
今では、ブルースとロックの混合した音楽や、ジャズとロック・ブルースの混合で生まれた、フュージョンと呼ばれる音楽が凄い好きになっております。

それは一歩一歩、好きだなーと思った音楽を死ぬほど聞き込んで、少しずつ好きな分野が増えていき、後から昔借りてきたあまり好みでなかった音楽を聴き直すということを続けた結果であります。

そのレベルに行くまでは、自分で訓練するしかないのでしょうが、そもそも好きでないとそんなこと誰もしたくはないでしょう。

学問なんてものは、その際たる例でして、音楽や絵画と違って、たとえある人が尋常じゃなくある領域を極めつくしていたとしても、それを多少なりとも学んでいない人には一切判断がつきません。

絵や音楽は、見たり聞いたりすれば、たとえ素人でもそれなりの判断のうちに、好悪の良し悪しがわかりますが、数学の天才に出会って話を聞いたとて、我々がある程度の知識を持たない限り、その人が凄いのかどうかさえ判断すら出来ないという状態に陥ります。

知性を磨き、かつ努力して何らか特殊な学問を修めたり、非常なる深化した概念をある人が獲得していたとしても、悲しいかな、変わり者として逆に世間から浮いてしまう可能性が出てくるのです。

多くの人が、分かりやすく、すぐに結果が出て、貨幣経済に効果的なものに価値を置いているとするならば、上述のような人々は甚だ非効率な人生を送っているように見えます。
確かにそのような概念を獲得した人々は一風変わった人が多いのも事実でしょう。

僕が憧れた、文学家や音楽家、あるいは数学屋、物理屋や情報工学屋などの人らが言っていた、物事の追究に対する心構えや、世界に対する視線というものが、時には、生きにくさに繋がるという事実が、果たしてあるように思われます。

そもそも、そのような人々は少数派であり、仮に世の役に立つものを生み出すとしても、多くの人にとって理解されない、目下興味のないことであることが多いはずです。

かかる状況において、多くの本物を追究する人は、世界で起きている現象と自分が逆行しているのではないか?と思うことが多々有るかもしれません。
お金にならないことを一生懸命やっていたり、周りの人らが現実の忙しさに対面して、現実のみを直視しているのを見ると、果たして、自分は何をやっているのか?問うことがあると思われます。

数学ガールの著者である、結城浩先生が、かつて「学問を常にやる人は、精神状態に常に気をつけなければならない」といった旨を述べていたと思います。

確かに、およそ抽象的な世界に多くの時間触れ続けていると、多くの事柄に対して、ある種の不思議さを想ったり、現実世界と理論(例えば物理理論)との間のあまりの差異に対して、精神的な摩擦のようなものが生じ、疲れるといった現象が生じます。

そこで我々が、目まぐるしい現代で精神衛生を保って楽しく生きる術を考えてみました。

本物を追い求める人が、現代で生きるには?

仲間を探す

当該分野の仲間を探して、切磋琢磨し、情報を交換したりするというは、考えつきやすい一つの解決策です。
何かを頑張っている人は、たくさんのエネルギーを持っており、ポジティブにやっている人が多いです。
単に、そういう人と一緒に頑張るだけで、長期的な視点ではかなりの前進があると思われます。

他の人に教える

歴史を振り返ってみると、「人類は、世代を超えて英知を連綿と受け継いでいくもの」ということがありありと見て取れます。
僕がそれを意識したのは、数学史や物理学史を読んで、時を超えて、世界中の人々が、自然現象や数学理論等を追究し、少しずつ科学が進展していくさまを知った時です。が学者個々人の生き様も面白いのですが、「人類は個ではなく、総体としても前進している」と印象を深く残しております。

さらに、自分の専門領域である物理の研究が世界中でリンクしていることを、学会の発表などで体感したことも実感を持てました。(他国の人から声をかけてもらって質問をもらったり、議論したり。)

さて、我々が深めてきた、ある種何に使えるかもわからない、叡智とも言うべき概念の集積ですが、近くの興味ある人に、自分の専門について教えてあげたり、深く学びたい人などが周りにいたら、勉強会などをして、その英知を分け与える何らかの活動をすると良いと思うております。

人は、個人の精神世界も重要で興味深いものですが、世界全体として、後世に良いものを残すというのも、また重要な価値の伝達でありましょう。
意外にも、この教え伝えていくという行為が、我々の精神衛生にとっても良いものである、ということを感じております。

 

自分が学んだもので無理やり経済活動を行う

上記では、本物を追求する人は、往々にして、経済活動と逆行するなどとのたまっていました。
確かにある程度物事を深めるには相応の時間が必要なので、それなりの深みに到達するまでは、まずはじっくりと自分のやるべきことと向き合うことが必要でしょう。

現代においては、それに加え、自分の得たものを外に向かってアウトプットする力が重要性を増しています。
さらに言えば、自分の得た能力をうまくデザインして、世に還元する力です。
これは、自分が会社以外で稼ごうと考えた時に、必須だなーと感じた力のひとつであります。

これをマーケティングスキルという呼び方で呼ぶのかもしれませんが、ネット活動が活発な現代においては、最早このスキルは必須なのかもしれないとさえ思っております。

サカナくんなどは、魚をはじめとした深海生物が好きなわけですが、うまく世にアピール出来ており、かつ好きなことで経済活動も出来ておりますので、実生活を生きる上で一石二鳥であります。
しかして、よく考えてみると、魚という対象にこれほどのコンテンツ力があったとは、あまり想像がついておりませんでしたし、売り出し方も少々変わっているでしょう。

個人の活動をうまく世にアピール出来れば、それなりのコミュニティを築くことができ、かつ経済活動に繋ぐことが出来るという可能性が、現代社会には眠っているように思います。

僕は、はっきり言ってこれまで、自分の学んだことと、実社会とのつながり、なんてことは全く考えてこなかったたちなので、今学び始めたばかりであります。

今考えていることをつらつら書いてみましたが、割と不完全な記述になってしまいました。
より精密に書こうとするとかなりの分量になってしまいます><。。

紹介した本のリンク

本の紹介も兼ねてリンクを貼っておきます〜。